
近年日本のミュージック・シーンではパンクが花盛りである。ひところパンクの中核をなした“ハードコア”は影をひそめつつあるが、メロディライン重視のいわゆる“メロコア”バンドは主流となり、チャートの上位に数多く顔を覗かせている。特にインディーズながらアルバム2枚で400万枚(!)近いセールスを記録、いまなおチャートインし続けている沖縄のバンド「モンゴル800」の登場によって完全に市民権を得た感がある。彼らは明らかに“ある”バンドの影響を大きく受けている。
パンク・ロックの誕生...それは果たしていつであろうか?初期のビートルズ、ザ・フーなどにそのルーツがあるという見方をする人もいれば、70年代初頭のイギ−・ポップ率いるストゥージーズ、ジョニー・サンダースのニューヨーク・ドールズを“元祖”という人もいる。しかしドールズなどはルックス面の派手さからやや違和感があり、あくまでパンクの“試作品”というイメージを払拭しきれない。 1977年、セックス・ピストルズが「アナ−キー・イン・ザ・UK」で衝撃的デビューを飾った時、欧米のプレスはこぞって彼らを“パンクの元祖”として持ち上げた。 が、これは大きな誤解であった。その前年、日本のレコード会社はあるバンドに“We are PUNK generation”とのキャッチフレーズを与えで大々的にデビューさせ、現在に至ってはこのバンドを欧米のロック名鑑ではほぼ例外なく“THE FIRST PUNK ROCK BAND”と位置付けている。何せピストルズがデビューした時、彼らは既にサード・アルバムのリリース直前であり、ピストルズ、そしてクラッシュまでもが彼らに憧れてバンドを組み、デビューにこぎつけたのだから。 それが、今回取り上げるパンクの“元祖中の元祖”・・・ラモ−ンズである。
1974年、ニューヨークのフォレスト・ヒルズの裏通りにロック好きな4人の若者が集い、ラモ−ンズは誕生した。ポール・マッカートニーがかつてポール・ラモ−ンと名乗っていたことから“ラモ−ンズ”というバンド名を思いつき、ジョーイ・ラモーン(ヴォーカル)、ジョニー・ラモ−ン(ギター)、ディー・ディー・ラモ−ン(ベース)、トミー・ラモーン(ドラムス)とメンバー全員がラモ−ン姓を名乗ることにしたそうである。 バンドは組んだもののロクに楽器が出来ない4人は、まずは練習を重ねた。かといって自分達が好きなバンドのコピーは難しくて出来るものではない。そこで彼らは3コードないし4コードでシンプルなオリジナル曲を演奏することにした。 74年暮れ、マンハッタン南部のライヴ・ハウス「CBGB」に出演し始めた彼らは、パティ・スミス、テレヴィジョンなどと共に大きな人気を掴み翌年メジャーのサイアー・レコードと契約、76年5月、今回紹介するアルバム『ラモ−ンズの激情』で念願のデビューを飾る。
2分前後の4コードによるシンプルなロックン・ロール...ノイジーでありながらポップ、暴力的かと思えばナヨッとしたラヴ・ソングあり...短い曲の中にさまざまな世界が詰め込まれた斬新な手法は注目を集め、何故かニューヨークよりロンドンで大きな人気を博した。ロンドン公演の際、デビュー前のピストルズやクラッシュのメンバーがバックステージ・パスを求めて躍起になっていたのは有名な話である。ちなみに1曲目の「ブリッツクリーグ・バップ」はベイ・シティ・ローラーズの「サタディ・ナイト」のアメリカ版を目指したそうである!キャッチ−なアイドル路線をも目指していたとは... 77年1月には早くもセカンド・アルバム『リーヴ・ホーム』を発表、パワフルさを増したサウンドはさらに注目を集めたがここでちょっとしたトラブルが起こる。5曲目に収録されていた「カボーナ・ノット・グルー」の“カボーナ”が登録商標だったため、裁判沙汰になってしまったのだ。
仕方なくレコード会社は2回目のプレスから、後にシングルとしてもリリースされサード・アルバムにも収録されている「シーナはパンク・ロッカー」に差し替えを余儀なくされた。 またも早いペースで同年11月サード・アルバム『ロケット・トゥ・ロシア』を発表。前述の「シーナはパンク・ロッカー」そして「ロッカウェイ・ビーチ」という2曲の全米TOP100ヒットを生み出したにも拘らずパンク・シーンはニューヨークよりロンドンに活気が移り、彼らにとってはやや厳しい時代であったが1年365日ほとんど毎日をツアーに費やし、更なるファンを獲得していったのである。
78年10月発表の『ロード・トゥ・ルーイン』からドラマーとしてマーキー・ラモ−ンが加入、トミーはプロデュースに専念する。前3作と異なり、このアルバムにはオ−プニングから重さがつきまとう。よく解釈すれば、音楽性が広がった1枚と言えるだろう。 翌79年は初めてオリジナル・アルバムのリリースがない年であったが、前年出演した映画『ロックンロール・ハイスクール』のサントラ発売、ヨーロッパおよび日本のみで当時発売されたロンドン公演ライヴ『イッツ・アライヴ』などがあった。
そして1年半ものインターバルを経て『エンド・オブ・ザ・センチュリー』をリリース、何とフィル・スペクターをプロデューサーに迎え重厚さを増したサウンドは当時物議を醸した。翌81年7月にリリースされた『プレザント・ドリームス』では当時10ccのグラハム・グールドマンを起用、初めてオリジナル作品のみでまとめあげた1枚であるが、レコード会社との確執があったせいか散漫な印象が拭い切れない。その後83年2月に『サブタレイニアン・ジャングル』を発表、直後にマーキーが脱退し84年10月発表の『トゥ・タフ・トゥ・ダイ』よりドラマーとしてリッチ−・ラモ−ンが新加入した。
86年5月に『アニマル・ボーイ』、87年9月に『ハーフウェイ・トゥ・サニティ』とリリースが続くが、パンク・シーンの低迷に合わせるかのように作品のパワーが薄れてきた感は否めない。
サイアー・レコードでの最後のオリジナル・アルバムとなった89年8月発表の『ブレイン・ドレイン』はビル・ラズウェルをプロデューサーに迎えた意欲作で、映画「ペット・セメタリー」のタイトル・ソングが収録された事でも話題を呼んだ。マーキーがドラマーとして本作より復帰、バンドは上向きになるかと思われたがオリジナル・メンバーのディー・ディーが直後に脱退、オーディションによりC.J.ラモ−ンがベーシストとして加わることになる。
スペイン・バルセロナでのステージを収録した91年11月発表の『ロコ・ライヴ』でサイアーとの契約は完全に切れ、翌年クリサリスに移籍、『モンド・ビザ−ロ』を発表する。オリジナル・メンパーより15歳も若いC.J.の加入はバンドに活気を取り戻し93年11月には初の全曲カヴァー・アルバム『アシッド・イーターズ』を発表、精力的な活動を再開した。 が、95年6月に発表された『アディオス・アミーゴ(さらば友よ)』という意味深なタイトルから解散説が急浮上、もしや、と思っていたら「ベストの状態で終わりたい。パンクは年寄りのするもんじゃない。」との意見がバンド内で一致し、96年8月6日ロサンゼルスのパレス・クラブでのコンサートを最後にパンクの“生き証人”ラモーンズは23年間にわたる活動に終止符を打った。
日本へも7度足を運び、世界各国を駆け巡ったライヴ回数、その数何と2263回... ラモーンズ・スピリットを継承したバンドは今でも数多く存在し、代表的なのはグリーン・ディ、オフスプリングなどであるが、彼らの活動が後押ししてくれた事も手伝って昨年(2002年)4月、晴れてラモーンズはロックンロールの殿堂入りを果たした。残念なのは、前年4月にジョーイが亡くなっていたことだったが。さらにディー・ディーまで殿堂入りセレモニーに出席した2ヵ月後に亡くなってしまった...
しかし、今年(2003年)になって素晴らしいプレゼントが届けられた。唯一残されたオリジナル・メンバーであるジョニーと、その友人ロブ・ゾンビのプロデュースによって『ウィー・アー・ハッピー・ファミリー〜ラモーンズ・トリビュート』がリリースされたのだ。前述のグリーン・ディ、オフスプリングはじめU2、メタリカ、プリテンダーズ、KISS...そして何とトム・ウェイツまで参加しているのである!
話を冒頭に戻そう。言いたかったのは日本でもラモーンズ・スピリットを持ったバンドが数多く活躍している、それゆえパンク・シーンが盛り上がっているのである。不変のパンク・スピリット・・・それは決して暴力的だったり、反抗的だったりすることではなく、音楽を楽しくプレイし、そして聴くことなのである。それを、ラモーンズが教えてくれた。
(中野 亮)