ナッキーのこれだけは聴こう!

ここでは「ナッキー」こと中野亮さんがロック・ポピュラーから“若い世代にこれだけは聴いてほしい”という歴史的名盤や個人的にも思い入れがある珍盤、名盤をランダムに紹介していきます。


ダブル・ファンタジー


   "10年ひと昔"とはよく言ったものだ。 しかしすべてにおいて高速化が進む現代においては、そのフレーズも過去のものとなりつつある。なぜなら、ジョンが天国へと旅立ったのが既に"ふた昔"も前とは思えないからである。全世界を駆け巡ったあの忌まわしいニュース…それが昨日の出来事のように感じられるのは、それだけインパクトが強かったからであろう。 『レノン死す!』…当時は芸能音楽ニュースがスポーツ紙の一面を飾る事は滅多になかったのだが、このニュースだけは別格で各紙の一面を大々的に飾ったのだ。それはジョン、ひいてはビートルズが音楽的、いや社会的見地においてもいかに偉大な存在であったかを再認識させられる出来事であった。12月8日…永遠に忘れられない日である。

 ビートルズが1968年頃から"個"の部分を全面に押し出してきたことはバックナンバー『ジョージ・ハリスン/オール・シングス・マスト・パス』で触れているが、この頃ジョージ同様グループを離れて実験的、前衛的活動をスタートさせたのはジョンも例外ではない。それは、69年3月に結婚したオノ・ヨーコの影響が多大であった。  結婚前に発表した『未完成〜作品第一番』『未完成〜作品第二番』『ウェディング・アルバム』、以上三作は完全なプライベート・アルバムであったが結婚後に"プラスティック・オノ・バンド"を結成し69年9月にトロントのバーディ・スタジアムで行なわれたR&R・リバイバル・コンサートに出演、同年12月にはその模様が『平和の祈りをこめて』と題されたライヴ・アルバムで発表された。この作品が実質的なジョンの"ソロ・ワークの第一歩"とみてよいであろう。

 翌年4月、ポール・マッカートニーの宣言によりビートルズは正式に解散。しかしジョンは69年10月に脱退を表明していたので、この時点ではアスコットの自宅でファースト・ソロ・アルバムのプランニングに没頭していたと思われる。  そして70年12月、初のソロ・アルバム『ジョンの魂』を発表する。本作にも"プラスティック・オノ・バンド"の表記があるが、内容的にはジョンのソロとみなしてよいと思う。  自己の内面をさらけ出した鋭い描写には戦慄すらおぼえるが、案の定シングル・カットされた「マザー」は狂気じみているという理由で放送禁止になってしまった。しかし後にレターメンによってカヴァーされ大ヒットした「ラヴ」にみられるような悲しさの中にも優しさが溢れるバラードも披露している。

 翌年9月、ジョンとヨーコはニューヨークに移り住み、愛と平和の祈りを込め、ややもすると堅苦しくなりがちな政治的メッセージをポピュラーな作風に仕上げた不朽の名作『イマジン』を発表する。今なおジョンの代表曲として語り継がれる「イマジン」を収録した本作は、ソロ2作目にして英米チャートで1位に輝いた。  しかしジョンはビートルズ時代の65年に「ビートルズはキリストより有名さ」と発言したことから、アメリカでは政府やFBIから要注意人物とみられており落ち着いた創作活動は大変困難であった。そこで政治的に直面したさまざまな問題をストレートに表現したアルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』を72年に発表する。本作ではジョージ・ハリスン、エリック・クラプトン、フランク・ザッパ等の豪華ゲストを迎え、パワフルなロックを聴かせてくれた。

 だが、政府やFBIによる圧力は日増しに強くなり、思うように平和活動が出来なくなったジョンはドラッグや酒に溺れて行く。見かねたヨーコはジョンとの活動を中止、73年10月から別居生活に入る。  直後に発表された『ヌートピア宣言』では『イマジン』に続いて"愛と平和"がテーマとなっていたが、あえて明るく振舞おうとしているジョンの姿が見え隠れしていまひとつの寂しさが漂う作品である。  翌74年10月にはエルトン・ジョン、ハリー・ニルソンらの手を借りて『心の壁、愛の壁』を発表、シングル・カットされたパワフルなロックン・ロール・ナンバー「真夜中を突っ走れ」はソロ・シングルとしては初の全米第一位に輝いた。  ほとぼり醒めやらぬ75年2月、全編ロックン・ロールのスタンダードを収録した『ロックン・ロール』を発表する。本作は73年10月よりレコーディングが行なわれていたが、プロデューサーのフィル・スペクターの事故により中断、残りをジョンのセルフ・プロデュースによって完成し急遽発表された。  シングル・カットされた「スタンド・バイ・ミー」はベン・E・キングの代表曲であるが、ビートルズ時代にもステージではよく歌われていたお気に入りの一曲であった。ベン・E・キングもお返しとして、77年にアヴェレイジ・ホワイト・バンド(バックナンバー参照)との共作アルバム『Benny&Us』のなかで「イマジン」を熱唱している。

 ヨーコとの別居生活が1年以上続いていたジョンであるが、エルトン・ジョンのコンサートで偶然再会(ジョンがゲストでヨーコがオーディエンス)、75年1月より再び二人で新しい生活を送る決意を固めた。程なくしてEMIとの契約も切れ、晴れてどこのレコード会社からも拘束されなくなったジョンはヨーコと共に新しい生き方を模索する。  75年10月、ヨーコとの間に待望の子供ショーンが誕生、加えてアメリカでの永住権も認められ政府との長い闘いにピリオドを打った。

 「自分はビジネスに向いていない」…かねがねそう感じていたジョンは、ビジネスに関する一切をヨーコに任せ、自らは家事、ショーンの育児に専念する主夫(ハウスハズバンド)となったのだ。  ビジネスから解放されたジョンは好きな時に詩や曲を書き、ビートルズ時代には考えもつかなかったゆったりとした日々を過ごしていった。  この頃よくお忍びで来日しており、実は私も79年の夏、東京・銀座のはずれの喫茶店にハイヤーでヨーコ、ショーンと共に乗り付け、つかの間のコーヒーブレイクを楽しんで行ったのを目の当たりにしてしまった。オフィス街、それも日曜日ということもあってお客はジョン、ヨーコ、ショーンと私たちだけ…今となってはサインでももらっておけばよかったかなと思うが、幸せそうに煙草をくゆらしながらコーヒーカップを手にするジョンの姿を見ていたら、水いらずの時間を邪魔すべきではないと声をかける事も出来なかった。 まさかその1年4ヶ月後にあのような事になるとは。。。

 主夫生活も5年を過ぎ、その間に書きためた曲がかなりの量になり、ショーンも5歳になりいくぶん手もかからなくなってきたので、ジョンはそれらの曲を2枚のアルバムにまとめることにした。それが今回取り上げた『ダブル・ファンタジー』と84年に発表されたミルク&ハニー』である。

 『ダブル・ファンタジー』はジョンとヨーコの曲が交互に収録され、ふたりの対話という形をとっているが、それは単に愛=ラヴ・ソングの羅列ではなく、より深い部分で二人が何を考え、何を求め、そしてどのような方向へ進んで行くのかをはっきりと表現しているのである。  オープニングの「スターティング・オーヴァー」ではヨーコがウィッシング・ベルを鳴らして新たなる旅立ちを誓い、エンディングの「ハードタイムス・アー・オーヴァー」では辛い時期との決別を誓い、ここでも新たなる旅立ちへの希望を歌い上げている。間に挟まれた12曲…ここでは二人の感情がストレートに表現され、初期のソロにあったような内にこもった雰囲気はほとんど感じられなかった。  最初のシングル・カット「スターティング・オーヴァー」と共に、当然の如く英米はじめ全世界でヒットチャートを駆け上がったのであるが、そのさなかに起こったあの二度と思い出したくない事件…チャートのトップに立った時、ジョンは既にわれわれの手の届かない場所へと旅立った後であった。。。

 ジョンの死後、前述の『ミルク&ハニー』をはじめ生前録音された音源が次々と日の目を見る事となるが、それらの作品を聴くたびに辛さ、むなしさを感じるのは私だけではないであろう。ほんの偶然、ジョンの笑顔を間近に見てしまっているからなおさらである。

 21世紀を迎える直前、ジョンの生誕60周年を記念して日本に「ジョン・レノン・ミュージアム」がオープンした。  故郷リヴァプールにおいても空港、そしてホテルにまでジョンの名が冠されることになるなど"形あるもの"としてもジョンの名は残されてゆく…"ジョンの魂"は不滅である。 



(中野 亮)